バーブイルの記憶に捧ぐ

翻訳ブログです。さあ,われわれは下りて行って,そこで彼らの言葉を乱し,互いに言葉が通じないようにしよう。(創世記11:7)

古代ギリシャの名前の綴りと発音

http://web.uvic.ca/~lwoolard/a4/iliad-annotated2/spelling-pronunciation-homeric-names.html

 現代の叙事詩の翻訳者たちは,古代ギリシア人の名前を英語で綴ろうとするとき,ある問題に直面しました。それは,シェイクスピアやミルトンやポープやテニソンの翻訳に悩むときとは質の違った問題でした。英詩人たちは,Helen,Priam,Hector,Troy,Trojansなど,一貫して完全に英語風に書き換えられているいくつかの古代ギリシャ名を除いて,彼らが学び舎のなかで読んだであろう,ウェルギリウスオウィディウスの詩にあったのと同じ,ラテン語読みの古代ギリシャ名を用いてきました。Hecuba,Achilles,Ajax,Acheans,Patroclus。何世紀をも経てきた英詩を読んで,われわれもよく知っている名前ですね。

 叙事詩の翻訳者たちは,本来の古代ギリシャ語に近づこうと試み,古代ギリシャ人たちの名前をラテン語を経由せずに,古代ギリシャ語から直接書き写そうとしました。ある翻訳者はHékabê,Akhilleus,Hektor,Aías,Akhaians,Patróklosと綴りました。ほかのある翻訳者は,大部分はこの綴りにしたがったものの,おそらくkhの組み合わせが英語にふさわしくないと見たためでしょう,Achilleus,Achaiansという形で折り合いをつけました。そのうえ,Helen(Helenê),Trojans(Trôes),Argives(Argeioi)という完全に慣らされた単語が来たときには,翻訳者たちはみな忠実な転写をためらうのです。RhodesRhodos)やThrace(Thrêikê)のようなケースもそうです。

 ここは誰も完璧な一貫性を主張することが叶わない領域で,われわれ*1もそれは諦めて良いと考えます。その根底には,英詩人たちの時代の伝統的な綴り方への郷愁が横たわっているのです。――純粋に英語の形になってしまったものを除いては,すべてラテン語から引きつがれた,われわれの誰もが知っている名前の綴り方です。

 当然のように,この伝統への固執はやがて受け入れがたいことを要求します。Athenaの代わりにMinervaを,Odysseusの代わりにUlyssesを,Zeusの代わりにJupiterやJoveを,その固執は強いるでしょう*2。われわれはこのうちギリシャ神話の名前を選んだものの,しかし,ラテン語の文法に添って転写しました。この翻訳では,HêrêはHeraになっていますし,AthênêはAthenaです。ほかにも,kをcに置き換えたり,末尾のosをusで代用したりしました(Patroklos→Patroclus)。osで終わる名前の中でも,子音+rosで終わる名前については,erを使いました(Meleagros→Meleager,Teukros→Teucer)。古代ギリシャ語の二重母音oiとaiはそれぞれラテン語の二重母音oeとaeで表され(Boiotian→Boeotia,Akhaian→Achaean),古代ギリシャ語の二重母音ouはラテン語のuで表されました(Lykourgos→Lycurgus)。

 この伝統的なラテン語風綴りが擁しているのは,ラテン語の音とも古代ギリシャ語の音とも一致しない音韻体系です。「体系」という言葉を使うには,それは矛盾に満ちすぎているかもしれません。だけれどもそれは,英詩人たちは何世紀にも渡って用いてきたものですし,彼らのそれぞれが心の中で聞き,やがて彼らの詩を読む人たちもまた同じように聞くだろうと信じられてきた音なのです。信じるしかなかったのは,忠実に転写された古代ギリシャ語を発音するための,似たようなしきたりが無かったためです。Akhilleusのなかにhの音は聞こえますか*3? Diomedesは{dee-oh-may'-days ディーオメイデイス}と発音しますか,それとも{dee-oh-mee'-deez ディーオーミーディーズ}と? ……われわれは,キーツ*4とシェリーが見出した発音こそ,もっとも妥当なものだと考えました。

 Achilleus{a-kil'-eez アキリーズ}のように,chはつねに{k}の発音を使われます。cやgがcakeやgunのような破裂音*5になるのは,それがaの前に来るときや(Lycaon{leye-kay'-on レイケイオン}),oの前に来るとき(Corinth{kor'-inth コリンス},Gorgon{gor'-gon ゴーゴン}),uの前に来るときです(Curetes{koo-ree'-teez クーリーティーズ},Guneus{goon'-yoos グーニュース})。他の子音の前に来るときにも,cやgは破裂音になります(Patroclus{pa-tro'-klus パトロクルス},Glaucus{glaw'-kus グロウクス})。cやgがcinderやGeorgeのような破擦音*6になるのは,それがeの前に来るとき(Celadon*7{se'-la-don セラドン}), Agenor{a-jee'-nor アジーノル}),iの前に来るとき(Cicones{si-koh'-neez スィコーニーズ},Phrygia{fri'-ja フリジャ}),そしてyの前に来るときです(Cythera{si-thee'-ra シセーラ}, Gyrtone{jur-toh'-nee ジュートーニー})。最後の組み合わせ,ciaとgiaはそれぞれsha(Lycia{li'-sha リシャ}),ja(Phrygia{fri'-ja フリジャ})となります。

 しかしながら,子音の発音がこれらの規則に従わない場合もまたあるのです。Argivesのgは,Argosのアナロジーから,破裂音で{ar'-geyevz アーゲイブズ}と発音し,{ar'-jeyevz アージェイブズ}とは発音しません。Caesarのaeが{ee イー}と発音されるせいで,cが破擦音になる({see'-zar スィーザー})ことも,例外の一つでしょう。

 母音の発音についても,すべてとまでは行きませんが,しばしばラテン語(もしくは古代ギリシャ語)の音節の長さによって変わります。読者は下線の付いた名前にマウスオーバーし,ポップアップからサウンドクリップを再生するか*8,もしくは巻末の発音一覧表から調べてもらう必要があるでしょう。末尾のeはつねに長音になります(Laertes{lay-ur'-teez ライアーティーズ})。末尾のesはAchillesにみるように{eez イーズ}と発音します。ほかの場所にあるeはだいたい,sneezeかもしくはpetのeと同じように発音できます。iはbitかもしくはbiteのiで発音できます(Achilles{a-kil'-eez アキリーズ},Atrides{a-treye'-deez アトレイディーズ})。yにも二つの発音があり(Cythera{si-thee'-ra シセーラ},Lycaon{leye-kay'-on レイケイオン}),oはOlympus{o-lim'-pus オリンプス}かもしくはDodona{doh-doh'-na ドードーナ}のように発音します。この綴り方では,uは古代ギリシャ語の二重母音ouを表しているため,語尾のusと二重母音のu以外のuはつねに長音になります。ただし,dewの{you ユー}やglueの{oo ウー}と同じように発音されることもあるかもしれません(Bucolion{bew-kol'-i-on ビューコリオン},Guneus{goon'-yoos グーニュース})。

 二重母音のoeとaeはともに{ee}と発音されます(Achaeans{a-kee'-unz アキーウンズ},Phoebus{fee'-bus フィーブス})。ただし,aerは二重母音にはなりません(Laertes{lay-ur'-teez ライアーティーズ})。そしてaer以外で母音の組み合わせが分けて発音されるときには,分音記号が使われます(Danäe{da'-nay-ee ダナイェー})。二重母音auは{aw}と発音しますが(Glaucus{glaw'-kus グロウクス}),Menelausのように末尾にくる場合には,{me-ne-lay'-us メネレイウス}と分けて発音します。彼の名前はすでに読者になじみ深いものとなっているので,類似のケースでもわざわざ分音記号を使わなくても良いとわれわれは判断しました。末尾のousについても同様です(Pirithous{peye-ri'-tho-us ペイリソウス})。末尾のeusは{yoos ユース}のように発音します(Odysseus{o-dis'-yoos オディシュース})。ただし,有名な三つの川の名前Alpheus{al-fee'-us アルフィーウス},Peneus{pee-nee'-us ピーネーウス},Spercheus{spur-kee'-us スパーキーウス}と,トロイの木馬の建造者の名前Epeus{e-pee'-us エピーウス},そしてリムノス島の王の名前Euneus{yoo-nee'-us ユーニーウス}は除いて。

 今いった以外の母音の組み合わせは二重母音とはならず,全て分けて発音されます。eeは{ee'-i イーイ}となり(Briseis{breye-see'-is ブレイスィーイス}),ooは{oh-o オーオ}となります(Deicoon{dee-i'-koh-on ディーイコーオン})。oiも同じように二重母音としてではなく二つの音として発音します(Oileus{oh-eel'-yoos オイーリュース})。ただし,チョーサーの時代から綴りが安定しているTroilusについては{troy'-lus トロイルス}と発音します。

 ……このように,われわれ自身が課した制限の範囲内でさえも,明らかに,完璧な一貫性を主張することなどできません。ときおり現れる,グロテスクとまで言えるラテン語の形の前に,われわれはうろたえ,後退りしました。英語では見慣れた形のAjaxについてですが,詩中にはこの名前を持つ男が二人出てきます。ホメーロス複数形を使ってその二人のことをいっぺんに指すところで,われわれは,英語の複数形Ajaxesでもラテン語複数形Aiacesでもなく,(ラテン語風の)古代ギリシャ語の複数形であるAeantesを使いました。さらに,Poseidonの場合のように,ラテン語の形が存在しないとき,われわれは古代ギリシャ語の転写を使いつつ,{po-see'-i-don ポスィーイドン}ではなく伝統にしたがって{po-seye'-don ポセイドン}と発音しました。Pleiades{pleye'-a-deez プレイアディーズ}も同様です。これらもまたわれわれの規則から外れた英語の使い方です。でもそのかわりわれわれは,煩わしい分音記号をときたま使われるくらいにまで減らしたと言うことができませす。また,初めてホメーロスを読みにくる人たちに発音のガイドを与え,他の詩人が古代ギリシャの名前を口にするときにも,読者がそれを役立てられるようにした,と言うことができるでしょう。われわれはまた,テキストの中に出てくる正確な名前とその強弱と母音の長短を記した発音一覧表を作りました。

(サイドバー)

 このガイドは,Robert Faglesの訳によるThe Iliadの65~67ページからの転載ですが,サイト全体では,通常,Richmond Lattimoreの訳によるイーリアス(英語)が用いられています*9。ギリシア人名の綴りの多くが二つのテキストのあいだで違っていますが,それでもこのガイドは,古代ギリシャ語の英訳を読む人たちにとって貴重な道具を提供することでしょう。オーディオクリップと単語集もその助けになるでしょう。


コメント

 英語のホメーロスが名詞語尾をとられて‘Homer’となることを不思議に思っていたのですが,その理由を探しているとき,このページに辿りつきました。結局,Homerの文字は一度も出てこないので,‘Homer’になった経緯は分からずじまいでした。それでも,古代ギリシャの名前の英語表記がいかに理不尽なものであるかは,このガイドから窺い知ることができます。
 第4段落は古代ギリシャ名の綴り方に,第6~第7段落は子音の発音に,第8~第10段落は母音の発音に割かれていますが,筆者が述べているように,これは例外も多く,そのうえ人によっても違ってくるので,物語を追うためだけならば,この規則を覚えるよりは,ひとつひとつ綴りと発音を覚えていったほうが早いでしょう。法則性を見出そうとする者を撥ねつけるところは,ヨーロッパの文法に見られる名詞の性と似ています。名詞の性も,それぞれの単語がそれぞれの経緯を経て獲得してきたもので,形や意味から判断することが難しくなっています。

*1:訳者Robert Faglesと編集者Bernard Knoxか。

*2:発音のみならず,神まで置き換えている。

*3:有気音かどうかを問うている。

*4:キーツは生前,彼の「訛り」によって脚韻詩を書いたことで酷評された。

*5:‘hard c’とか‘hard g’という。

*6:‘soft c’とか‘soft g’という。

*7:叙事詩の登場人物ではなく,オウィディウスの『変身物語』の登場人物。

*8:翻訳元のサイトに掲載されている叙事詩は,全編にわたってハイパーリンクが施されており,講読中でもサウンドクリップから名前の発音を耳で確認できる。とても親切である。

*9:翻訳元のウェブページはLance Woolardの手によるイーリアス講読を目的としたウェブサイトの一部である。